プロアスリートを支える食事に迫る。第53回 女子ソフトボール・宇津木 妙子さんインタビュー
2025.04.01
明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。今回は、ソフトボール界のレジェンドである宇津木妙子さんのインタビューをお届けします。ソフトボールを始めたきっかけや選手時代の活躍、指導者転身後の取り組みや日本代表監督時代の想い、そしてご自身や選手指導の際に心がけている食生活について、幅広くお話しいただきました。
はじめに、ソフトボールとの出会いを教えてください。
(中学1年生の時、)近所に2つ上の先輩がいて、その人がソフトボールをやっていたので「一緒にやらないか」と誘われたのがきっかけです。顧問の先生から「人間は同じ親から生まれてもみんな性格や個性が違う。宇津木の一番の長所をソフトボールを通して伸ばして、みんなで協力して県大会で優勝しよう」と言われたのも胸に響きました。それぞれの長所を伸ばしてチームや試合の中に役立てようと思うなら、やっぱり練習をするしかない。私も監督になった時、同じような思いでチーム作りを進めました。
若い頃の宇津木さんはどんな選手でしたか?
チャレンジすることが好きでしたね。今の時代は子供たちに「自分で考えなさい」と言いますけど、当時は「何かすると叱られるから、どうやって監督に怒られないようにするかを考える」のが常でした。ある意味、冒険心の強い選手だったんですよね。そして、言うべきことは言うタイプの人間でした。
当時のエピソードはありますか?
ユニチカ(日本リーグ1部・ユニチカ垂井ソフトボール部)に入って早い時期に「私をキャプテンにさせてください。絶対に勝たせますから」と部長に直談判しに行ったことですね。
当時のユニチカは日本リーグ1部で最下位。「これだけの選手がいるのに何で勝てないんだろう」と疑問に感じていました。そこで思い当たったのが、全体練習後の自主トレです。先輩に「なんで練習中にしっかりやらないで、練習後にやるんだ」と言われて、私からすると「下手だから自分で練習するのは当たり前じゃないか」とカチンと来たんです。「環境を変えたい」と思ってその後の直談判につながったんでしょうね。
でも、入社1年目の自分はレギュラーにもなれていなかったし、実績もなかった。その時はもちろん認められなくて、2年目もダメで、3年目にやっとキャプテン就任にこぎつけました。そこで私が最初に取り組んだのは、「5冠」というチームの目標達成のために1人1人が何をすべきかを書いてもらうこと。それをグランドに出る前に必ず大声で宣言してから練習に入るというのをルーティンにしたんです。その年から成績が急上昇し、タイトルも取れた。練習も「納得するまでやろう」と自主トレの制限を撤廃しましたし、全員の目の色が変わりましたね。
1970年代はソフトボールが五輪の正式競技になる前で、世界選手権が最高点という時代でしたね。
そうなんです。ユニチカはバレーボール部があって、1964年の東京五輪で優勝した「東洋の魔女」もユニチカの前身・大日本紡績がスタートですから、彼女たちは朝から練習ができて、栄養士もついていて、すごく恵まれていました。
だからこそ、ソフトボールをメジャーにしたいという気持ちはすごく強かった。「バレーボールのように大勢の人に応援されて、華やかな雰囲気の中では戦いたい」という夢を思い描いていました。それが実現するのは96年アトランタ五輪まで待たないといけなかったんですけど、当時はまだまだでしたね。

31歳で引退し、1885年に指導者に転身しますが、1980年代半ばの日本スポーツ界は女性監督が皆無に近い状態でした。
当時、私が日立高崎の監督になる時には賛否両論がありました。当時の日立は女性の管理職もほとんどいませんでしたから、女性監督は好まれなかったのが正直なところです。
ただ、就任してすぐの頃は日立高崎もあまり勝てなかったので、他の監督に気にされなかったんです。でも結果がでるようになると反感が強まって、手のひら返しの対応をされることも多くなりました。そこで、自分が考えたのは「男社会で認められるには勝つことしかない」とその気持ちを貫きました。
そうやって実績を積み上げ、日本代表コーチとなり、96年アトランタ五輪に参戦。アトランタの日本代表は鈴村光利監督の下、4位という結果になり、その後、宇津木さんが指揮官を引き継ぎました。
アトランタの後、「日本チームのいいところは何だろう」と自分なりに分析したんです。一番の強みは守り。ピッチャーのスピードは少し劣るかもしれないけど、制球力に秀でる選手が多かった。それを武器に2000年シドニー五輪のチームを作ろうと考えました。
そして挑んだシドニー五輪でしたが、決勝のアメリカ戦で私のピッチャー交代のミスで負けてしまった。あそこまで頑張った選手たちを勝たせてあげたかったという後悔は強く残りましたね。
次の2004年アテネ五輪に向けては、上野由岐子選手(ビックカメラ高崎)や山田恵里選手(現日本代表コーチ)ら若手も抜擢し、満を持して戦いましたが、銅メダル。またも金メダルに手が届きませんでした。
シドニーの後、テレビや取材が増えて、選手たちが少しどこかで勘違いしたところがあったのかもしれないですね。2003年のSARSの影響で海外遠征ができず、調整が予定通りに行かなかったのも大きかった。そういう中で現地入りしたら、上野がいきなり発熱してしまったんです。私の中では対戦相手が決まった時点でどういう選手起用をするかをある程度、決めていたので、そこから迷いが生じました。
やはり上野選手の存在感は大きいですね。
本人も健康管理の大切さを身に染みて感じたはず。2008年北京五輪の時はかなり入念に準備をしていましたね。
北京の時は斎藤春香監督で、私も解説者として現地入りしていたので「上野に託した方がいいよ」とよく話をしていました。最終的に準決勝・アメリカ戦、決勝進出決定戦のオーストラリア戦、さらに翌日の決勝・アメリカ戦で上野は413球を投げて日本を優勝に導いたわけですけど、斎藤監督も覚悟を決めて使ったと思います。
解説していた私のところには「うるさい」「お前は監督じゃない」というお叱りのメールも届きましたけど、私も一緒に戦っていたんですよね。金メダルというのはソフトボール界全体の夢でしたから、最後にアメリカに勝った瞬間は本当に嬉しかった。上野や選手たちに感謝しかなかったです。

ここからは、食生活についてお聞きします。宇津木さんは現役時代から食生活で気を遣っていたことはありますか?
28歳くらいから1日2食を続けているんです。昔は1日3試合というのも日常的にありました。試合時間が長引くと、お昼の休憩時間はほとんど取れないし、急いでご飯をかき込むみたいになってしまいます。当時のメインは唐揚げ弁当で消化はよくないですよね。ある時、お昼の弁当を食べてすぐに試合に入ったら、体調を崩して、パフォーマンスが全然出なくて、監督に物凄く怒られました。それからは「もう意地でも昼は食べるもんか」というスタンスになり、2食が定着しましたね。
選手を31歳まで続けたということですが、その食生活で体調維持できたのですか?
そうですね。昔は今のように栄養に関する情報や知識が普及していなかったので、栄養バランスもまちまちでした。会社にはソフトボール部の選手向けに野菜炒めとか卵料理を別途入れてもらうようになりました。自分も年齢が上がってきて、調子を整えるためには、いろんな栄養素を摂取しないといけないこともあり、そういった工夫をしてもらえたのは有難かったです。
そういう中でも体の調子を整える効果があるきのこは積極的に摂っていたそうですね。
はい。私は埼玉の田舎育ちなんですけど、母がよく煮物を作ってくれて、その中にしいたけやしめじなどのきのこ類が多く入っていました。それ以外の料理にもきのこが多かったので、率先して食べていました。みそ汁も具だくさんが好きなので、いろんな種類のきのこを入れるのが日常茶飯事でしたし、鍋料理もそうでした。
今も家で鍋をやるときはたっぷりきのこを入れますよ。きのこは低カロリーで、免疫力アップなど、健康的なイメージ。良く作るメニューとしては鍋料理、エリンギとオクラの炒めもの、シイタケの肉詰め、キノコトベーコンパスタ、鶏肉とキノコノクリームドリア、モヤシとシイタケ(エリンギ、しめじ)炒めなどがありますね。
指導者になってから、選手に食事面のアドバイスされたこともありましたか?
そうですね。以前、便秘がひどい女子選手がいたんです。当時、静岡県の天城湯ヶ島でよく合宿をしていたんですけど、周りがきのこ畑で、旅館の人に「(腸内環境改善のため)なるべく多くきのこを料理に入れてください」とお願いしたことがありました。きのこが苦手な子もいるので、お肉と丸めて料理したり、いろんな工夫をしてもらって、食べやすくしてもらいましたけど、その選手は「便秘が治った」と言ってきた。ダイレクトに効果が表れましたね。
今のソフトボール選手たちの栄養管理はどのようになっているんでしょうか?
私が代表監督になった時に栄養士をつけて、それを今も継続しています。当時、言われたのは「ソフトボールの選手は少しご飯を摂りすぎだ」ということ。練習量も多かったし、食べないとスタミナがつかないと考えていたけど、専門家の意見は大事ですね。
選手は朝起きたら体温と脈拍を測ってもらって、体調の変化を全部ノートに書いてもらうようにしていました。そうやって自分の状態を把握していくことが大事なんですよね。
宇津木さんは普及活動の中でいろんな話をする機会があると思いますが、食事面ではどのようなアドバイスをされていますか?
保護者の方にむけては「子供にはバランスのいい食事をまず食べさせてほしい」とお願いをしています。好き嫌いがある場合、私たちの若い頃は「ムリヤリにでも食べなさい」という感じでしたけど、今は「違うもので補ったらどうですか」と勧めていますね。
例えば、お菓子類にしても、油で揚げたものよりは、そうでないものの方がベターですよね。甘味料も結構入っていますけど、どういうものが入っているのかを見ながら判断していくことが大事です。ただ、あまりにもナーバスになるとストレスがかかってくる。年齢を重ねれば、自分である程度は判断できるようになりますよね。そういう時に「嫌いな食べ物の代わりとして違う食材を摂ればいい」と提案できるようになれば、子どもたちにとってもプラス。そういう指導はしていった方がいいと思います。

子どもに限らず大事なのはいかにバランスよく食べられるか。食べ物に限った話ではなく人間関係など生きていく中では好き嫌いがあるでしょうけど、その中でも付き合わなければいけないことはどうしてもありますからね。そういうときに別の形で補うなどバランス感覚を大切にしながら、自分に合った食生活をしてほしいと思います。
宇津木さんが今食べたい菌勝メシ
コメント
栄養バランスや消化の良さを意識して食事を選んでいます。きのこは低カロリーですし免疫力アップなど健康管理にも役立つため、麻婆豆腐に入れることできのこが沢山食べられ、辛さによって食欲アップや身体を温める効果も期待できるところが良いですね。

きのこたっぷり♪麻婆豆腐
きのこに豊富に含まれるビタミン・ミネラルといった「潤滑栄養素」は、三大栄養素の代謝を助けてエネルギーや筋肉を効率よく生み出すサポートをします。麻婆豆腐は肉や豆腐といった良質なタンパク質が摂れるうえ、ご飯との相性も◎。きのこを合わせることで効率的な身体づくりに繋がります。
profile
(うつぎ たえこ)
1953年4月6日生まれ、埼玉県比企郡中山村(現川島町)出身。
星野女子高校―ユニチカ(選手)―日立高崎(監督)―女子ソフトボール日本代表コーチ・監督―ルネサス高崎シニアアドバイザー・東京国際大学シニアアドバイザー―日本ソフトボール協会副会長―日本女子ソフトボール機構副会長
1953年埼玉県生まれ。川島中学校1年時からソフトボールを始める。星野女子高等学校を経てリーグ1部のユニチカ垂井に所属し、1974年世界選手権出場。1985年に現役引退後、ジュニア日本代表コーチを経て日立高崎の監督に就任。当時3部だったチームを1部で優勝するまでのチームに育て上げた。1997年に日本代表監督に就任、2000年シドニー五輪銀メダル。2004年アテネ五輪銅メダル。2004年9月、日本代表監督を退任。その功績が讃えられ、日本人初、指導者としてISF(国際ソフトボール連盟)の殿堂入りを果たした。現在は後進の育成や競技の普及に尽力している。
協力:THE DIGEST